「真善美」という言葉があります。正しいことを知り、正しいことを行う、これが真であり、大学の使命の第一は学生諸君にこの真に至る道をいろいろと教えることであります。しかし、社会を生きてゆく上において真だけでは十分ではありません。善という観点が必要となります。善には価値という視点が加わります。善は美とともにギリシャ以来の哲学の中心課題に一つでありますが、ここではそこには立ち入らず、ごく普通の常識的な議論をいたしますが、善に価値という概念が伴うのは、善には必然的に意思と行為が伴い、そして対象として他者の存在があるからであります。善は理性を超えた人間頭脳活動のより深い層に関係するもので、人格の多くの部分を担っているところといってよいでしょう。
さらに、その先に感性の世界があり、これが美と呼ばれているものに直接関係します。人間の頭脳活動の最も深い部分に関わっているものであります。善という価値観を超えいわば絶対世界を指向するところに美というものの特徴があります。人格陶治の究極の目標はこの美の感覚を身につけることであると言ってもよい思います。
しかし、美とは何かを説明することは簡単ではありません。なぜなら美は理性的な説明という世界を超えた所にあるものだからであります。ただ、美は時間を忘れさせてくれ、また悠久の時間の流れを感じさせてもくれます。そして何といっても感動を呼び起こし、崇高なものに対して憧れる心を呼び覚ましてくれます。美は現代人の持つ苦悩を認識させてくれるとともに、人の心を高め、豊かにしてくれます。このようにして美は、人間性を認識し、世界を見る眼を養い、社会を敏感に感じる任格を磨くのに大きな役目を果たしてくれます。
美は美術作品によって感知することができます。文学作品や音楽によっても触れることができるでしょう。また、世界文化遺産に指定された京都は、町そのものが美の塊であります。社寺庭園はもちろんのこと、数々の国宝があり、また30分も歩けば山裾の静かな佇まいに身をおくことが出来ます。そこには小川のせせらぎがあり、お地蔵様が祭られているといった世界があります。
京都大学に入学した諸君はそういった点で特に恵まれています。日本の伝統が今なお生き続けている京都という空間の中で学生生活を過ごし、自由に勉強し、物事を深く考え、美意識を磨くことのできる身の幸せを感謝しなければなりません。
しかし美はそういった対象世界にあるだけではありません。人の生き方の中にも美はあるのです。美は自分の目で見、体によって感じ、自分の感性によって発見するし、美を味わう力は長期間にわたる絶えまない努力によってしか培えません。現代芸術を味わうためには現代という時代とその時代精神を深く認識していなければなりませんし、諸外国の芸術を味わうというとき、それらの国の歴史と文化、現状といった背景を知っているといないとでは、その感じ方の深さと質が全く異なります。まして人の生き方の中や何でもないところに美を発見するには「こころ」が必要であります。
大学において諸君は善についてはある程度学びをみにつけることができるでしょう。しかし残念ながらこの美の感覚については教えることができるもではなく、諸君の京都での学生生活という実践を通じて体得してもらわねばなりません。
繰り返しになりますが、これからの社会においては真だけでは不十分であり、善を実践する努力をしなければなりません。ただ何が真であるか、何が善であるかを判断する基準は簡単でなく、究極的に何によって判断するかと問われれば、それはその人のもつ美に対する鋭い感覚によると言わざるをえないのであります。そして美的直観を磨いている人の判断はまず間違わず、その実践は正しく、また社会に対して善をもたらすことになるでしょう。
したがって、これからますます複雑化し、何が正しいかが明確化しない21世紀社会において、この美的感覚は欠くことのできないものであると思います。そういった意味で、私は「真善美」の中で美が最も高位に位置するものと考えており、京都大学という恵まれた環境に入ってくる新入生諸君に対しては、よく学ぶとともに、美的感覚を磨き、人格の陶治を心がけていただくことを願うのであります。
諸君の大学生活が実り多いものであること心から祈り、お祝いの言葉といたします。
「美しい」ということがどういうことかは、あらゆるところで聞かれまして、具体的にお話しすることが大変難しいのでございます。抽象的な意味でお話しさせていいただきます。
世の中の「美」というものは、さまざまでございます。彫刻もあれば、絵もあれば、花もあれば、景色もある。月も太陽もあるわけですね。どの分野のどれが美しいということは言えませんけれども、月並みな言葉で大変申し訳ないのですが、やはり自然に近いものが一番美しいと思っているのです。自然に近いものを人間の手で生み出すということは、作り出す人間が、自然をよく感じなければならないということなのです。
修行をして、自分の技術を十分磨いた揚げ句に、ある年代を超えて、どういうものを作りたいかという作意がなくなったときに、天から波をそのままもらい、知らないうちに手が動き、作り出したものが大変美しいバランスを持っていると思います。過去の名作があるとすれば、そういう人たちが作ったものが美しいものの代表だとされています。
例えばモーツァルトの音楽にしても、彼は生活苦もあり、食べるためにも音楽を書いたのでしょうけれども、天からもらった声をそのまま音符にする、パイプのような役だったと思うのですね。彼の生涯は短かったのですが、天からもらった波をそのまま音楽に書けた人なのでしょう。そういう音楽が大変美しいでしょうし、多くの人の共感を得るのだと思います。
もちろん絵画もそうです。古典絵画もありますでしょう。古代美術もあります。作意なく作った彫刻も大変美しいバランスを持っています。
それは金銭的なやりとりや何かでその美術品を作ったわけではなく、自分たちの象徴であったり、祈りであったり、自分たちのやむにやまれない思いが物を作らせた。誰に見てもらうという作意もなく作ったものが、美しく、現代に残っているということだと思います。
過去の名作をたどっていくと、それぞれの作家は天の波を全身で無意識のうちに感じることができ、十分な技術、いわゆる自分の肉体の操縦法を持っていた人たちの作品が、素晴らしい美をこの世にもたらしていると思います。それこそが人間が望んでいる真実であり、理想であったりすると思います。そういうものを見て、慰められるわけだと思っております。
私はもともと食に対するこだわりを強く持っておりました。それは味のないことではないのです。
現代の大量生産や物の売り方のなかで、食事のバランスというものが崩れてきたような気がするのです。養殖をしたり、薬品で人間が食べるものを作るということに対して、私は大変問題意識を持っております。それは、知らないうちに人間の体の中に不純物が入っていくということ。そうすると、美しいものを表現することができないと考えております。体に出てくる症状、あるいは子孫のための、うまく世の中を渡していけないような人間の細胞になってしまうということに対して、私は非常に危険を感じております。高価なものというよりも、なるべく純粋なものを食べるということを心掛けなければならないと、考えております。
これは私なりの考えですから、皆さんに当てはまるかどうかは分かりませんが、個人個人、一人ひとりが、一つ一つの細かいことを丁寧に考えてやっていくほかはないのだと考えております。それは地域のグループでの取り組みであるかもしれません。
私は皆さまに見ていただく作品を作る側の人間として、そのことに対して真剣に取り組んでいくということが大事で、そのことが私生活の中でできていかなければ、大勢の方に見ていただけるものができないと考えております。なぜか自分の体が、そういうふうに向いていくのでございます。
私は十数年前から自宅で暮らしておりますときに、自分の回りにしか電気を付けずにほとんど消しております。そういう意味で、山鹿(やまが)や佐渡(さど)にも行って本当にゆっくりとした暗い夜を過ごしています。そのことがどんなに人間として回復できるかということをつくづく感じまして、ここ20年ほどは、そのことを大事にして、仕事をさせていただいております。
ここで申し上げるのは大変僭越なのですけれども、目に見えている世界は仮のものだと私は思っております。本当は目に見えない世界、現象にない世界が一番大きな分量を占めていて、私たちが生命をもらって、こうして生きていくということは、ある種の通過点で、修行のための仮の宿なんじゃないかと思っているのです。その仮の宿を大切にしていかなければいけないと思っております。
目に見えない世界を信じて生きていかなければ、舞台は務まりません。それでなければ物語の中に入っていけませんし、昔の物語の中の人物になってお客さまを慰める、喜んでいただく、あるいは次に生きる力を少しでも持ってお帰りいただくことは、現実だけを演じていたのではできないことだと思っております。
そういう目に見えない空間、あるいは宇宙そのものなのかもしれません。そこに向かって精進していくということがなければ、ただ単に精進することはできないと思います。
もう一つは、ある対象があって、そこだけに精進していったのであっては、それから先には行けないということなのですね。ある対象よりも、はるか向こうの真空なのかもしれませんし、空なのかもしれませんし、もののないところなのかもしれませんが、そのことを一番大事に感じて生きております。
一番つらかった時期を立ち上がれたのは、時間がたったということなんですけども……。ちょうど具合が悪くなったのが8月だったんです。8、9、10月と3カ月間人前に出られないという状態だったのです。11月には、23カ所、25日間の巡業を持っていました。この状態では私は死ぬと思っていたのです。お医者さんに相談致しましたら、「死ぬつもりで出掛けなさい」ということでございました。もちろんちゃんとした専門医でございますから、冗談ではございません。
10月30日、今でも忘れませんが、上野から松本へ向かう車中で治ってしまったのでございます。具合が悪くなったのも、一瞬にして悪くなったのですね。タクシーに乗って、赤坂を走っておりましたときに、なぜか世の中に生きる希望を失ったのでございます。そしてなぜか分かりませんけども、治るときも、一瞬にして治ったんでございます。
質問の答えにはなってはいないのですけれども、そのことを通して、自分から暗い方へ向かってはいけない、どんなに苦しいことがあっても、「生きて次に行かなければならない」と思わなければならないということを学びました。
実は私、その後も29歳、36歳、41歳で同じ病がまいりましたが、そのたびに、病んでいる時間は長いのですけれども、深さが浅くなるという状態だったのですね。そして必ず治るから、自分が暗い方へ考えないということを学びました。
そうしているうちに必ず抜けるときがくるのです。自分の取り巻く環境を完璧に変えてみるということで抜けられて、その後で元に戻り、あらためて考え直して、自分の身の回りを見つめ直し、仕事をしていくということを学びました。